こんな私、あんな私・・・全て大好きと思える私でいる
【最近気づいたこと】
私は「あなたってこういう人」と誰かに断言されるのが苦手だ。
子供の頃は自分の気配を消して生きていたかったくらい大人しい子で
小学生の時から大人になるまでずぅっと「普通」「上品」と言われていた。
それは大人になってからも同じで。
だけどそれだけじゃないんだよなあ、とどこかで思っていた。
大人に見られたかったし、かっこよく見られたかったし、その理由として
何より自分の中にある男前だと言われる部分に40歳を過ぎてようやく気づいた。
だけどその男前な私は、登場の場面や回数が限られいるので
身近な人にしか分かってもらえないというのがあって
昨日、とうとう「美鶴さんはう○こしない人」に見えてるんや?
と受講生さんと大笑いした。
でも、きちんと見えたり優しく見られる女性的な自分も確かにあり
それはそれで間違いではないと思うし認めている。
しかし、私の中にある「周りの人から見えている私はほんの一部にしか過ぎないことへの
抵抗や反発が、いつも何か自分を表現することを変化させたい
・・・裏切りたいとさえ感じる原動力になっていた。
その理由は、これは誰しもあるのかもしれないのだけど
「振り幅の大きさ」なのかもしれないと思った。
厳格なオーガニックや玄米菜食×強烈な甘味やジャンクフード
ピンクやオレンジの優しく繊細な花×ざらざらとした木肌の樹木の強さ
袖を通すとその波動の心地よさがわかるナチュラルなうさとの服×かっちりしたレザージャケット
天然ひまし油マッサージ×香りたつシャネルのボディローション
大好きな九州の大地と温泉×空は狭く息苦しく感じるけれど刺激的な都会の雑踏
スピリチュアルも好きだけど現実も心底大切に生きている
大分と大阪を行き来する生活がこの数年の私のライフスタイルになっているのは
どちらもが好きで、両方私の中にあっていいと思えるし
その中間でもいいし、自分で何を選んでもいいし選ばなくてもいい、ということ。
起床時、むくんだ顔や寝ぐせだらけの髪の自分を鏡で見ると
・・・もはやこれは、残念無念!としか言いようがないよ、ガックリと思うこともあるけど
顔を洗ってメイクして今日はこんな顔の私、と整えるとこれも紛れもない私と思う。
(現代のコスメってなんて機能的ですばらしい道具なんだろうって思うし
この時、毎日違う顔の自分でいたいとも思う)
もしかしたら若い頃の私は、八面体や十二面体で
今はもっともっと面の数が増えて
もしかしたら球体に近いくらい、こんな私、あんな私という「面」が
もうウジャウジャと存在しているのかもしれない。
ようやく、今の私が大好きと言えるようになり
こんなところもあんなところもあるんだと認められた。
だからどんな面もどんな私も今ここに「ある」ということを大切にしたい。